エレファント
映画や小説の、なにげないシーンや音楽がいつまでも心に残って消えないことがある。
それを観たり読んだりしたときは何も感じなかったはずのシーンが、どういうわけかフラッシュバックのように思い出される。
そこには深い意味が込められているのかもしれないし、意味など何もないのかもしれない。
しかし、自分の心のどこかが感応したことは確かであり、確かである限り、人はそこに意味を見出そうとするのだろう。
『エレファント』は、1999年にアメリカで起きた「コロンバイン高校銃乱射事件」をモデルとした映画である。
題材は衝撃的だが、映画の作り自体は非常に淡々としたもので、ドラマ性はほぼ排除されている。
事件が起きるまでの一日が、高校生たちの姿を通して描かれるが、物語らしい物語はない。
また、誰かひとりに視点を定めることもせず、カメラは単調とさえ感じられるリズムで、数人の高校生たちの行動をただ静かに追うだけである。
平凡な一日は、今までのすべての日々と同じように、時に病んだ顔を覗かせながらも穏やかに流れてゆく。
そして、その平凡な一日を否定し、破壊するかのように銃乱射は起きる。
まるでロボットのごとく淡々と同級生や教師を射殺していき、最後には共犯の友人をもなんのためらいもなく殺してしまう少年――その動機ははっきりとは示されない。
いじめられっ子であったらしいことや、銃に異常なほどの興味を示すなどの特異性はあるが、それらを上記の行動に至る動機とするのは、あまりに乱暴であるように思う。
すべての解釈は観る者に委ねられているのだが、たしかに云えることは、どんな日常も闇を内包しているということかもしれない。
殺伐としたテーマながら、ガス・ヴァン・サント監督の映画らしく、映像も音楽も叙情性と瑞々しさに満ちている。
なかで不思議に強い印象を残すのが、主犯の少年が「エリーゼのために」を弾くシーンである。
犯行の前日、シューティングゲームの合間に戯れに弾くかに見える「エリーゼのために」――この愛らしいピアノ曲がシューティングゲームの合間に弾かれることに、少年の危ういアンバランスさを感じ取ることができるかもしれない。
が、今このシーンを心に浮かべて感じるのは、何か透き通ったような残酷さと物悲しさである。
イ短調からヘ長調への転調は、雲間から射す光を思わせ、それは少年時代の一瞬の輝きに重ねられる。
そして、「エリーゼのために」を耳にするたび、その光景とかすかな痛みが甦って来るのである。
「エリーゼのために」は、映画『ベニスに死す』の中でも印象的な使われ方をしている。
主人公アッシェンバッハの恋焦がれる少年タッジオが、ホテルの娯楽室でピアノを弾くシーンだが、ここでの「エリーゼのために」は何か不穏な物憂さといったものを感じさせる。
映画を観終えた後では、それはまるで、アッシェンバッハがこれから陥らんとしている破滅への予兆だったようにも思えてくる。
破滅への予兆、という点においてはこのふたつのシーンは同じなのだが、呼び起こす心象風景はまったく違う。
しかし、そのどちらもが、「エリーゼのために」とともに甦って来る風景であることも確かなのである。
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