MW -ムウ-
この作品を初めて読んだのは高校生の時。
図書室にあった手塚治虫全集の中から何気なく手にとってみたら、いきなり同性愛描写が目に飛び込んできて驚いたものです。
(同性愛描写とはいっても、ごく上品かつ抽象的なものなのだが、なにしろ当時は免疫なかったので結構ドキドキした)
しかし、憶えていたのはそこだけで、ストーリーについてはきれいさっぱり忘れ去っていた。
或いは、忘れてしまったわけではなく、始めからろくに読むことなく書架に戻していたのかもしれない。いや、きっとそう。
というのも、今回読んでみてわかったのだが、この『MW』という作品、かなり残酷なのである。
実際これがリアルな画風で描かれていたら、今だって読むのをためらうかもしれない。
多感な時期ならなおさら、軽くトラウマになったと思う。
ことほどさように『MW』は、手塚治虫の明るく健全なイメージからはかけ離れている。
同性愛はもちろん、殺人、強姦、獣姦、拷問と、描かれる内容はまるで悪徳と禁忌の見本市のよう。
そして主人公の結城美知夫は、メフィストフェレスに擬せられる殺人鬼。
その名の通り、美貌と知性を兼ね備えていて、出逢う人間すべてを虜にしてしまうような魅力の持主だ。
変装が得意で、女に化けるシーンも多いのだが、声音まで完璧に女性になりきるところがまたすごい。
こういう変幻自在さは実に悪魔的で、どんなにありえなくても「悪魔だからね」で納得してしまう感じ(笑)。
とにかく結城の万能感と妖しい魅力は半端ではない。
結城と愛憎関係にあるのが聖職者の賀来(がらい)神父という設定も象徴的で面白い。
賀来という男、聖職者とはいえ元々が罪の意識を逃れるために入信したこともあって、非常に人間くさい。
結城を受け入れることも断ち切ることも出来ず、常に迷い悩んでいる、そういうところは結城よりもよほど俗っぽく人間的だと云える。
迷える子羊は、どちらかというと賀来の方なんだよね。
賀来と較べてみるとわかりやすいのだが、結城にはまったく迷いがない。
目的のためならどんなに残酷なことも厭わず、子供だって殺してしまう。
このあたりの容赦なさはすごい。手塚治虫もよく描ききったと思うし、それを許した当時の出版社また社会の懐も深かったのだろう。
結城が殺人兵器“MW”を追うことにも、別に大義名分など存在しない。
どうせ死ぬなら人類を巻き添えにしてやろうという、ただそれだけの理由なのだ。
その悪への徹しようは痛快でさえある。
実際、結城を見ていると、男と女、正義と悪、神と悪魔、あらゆるものの境界が溶けてゆく錯覚を覚えなくもない。
作中「悪魔も神さまも結局同じものなんじゃないかしら?」とのセリフがあるが、結城を通して手塚治虫が表現したかったものもそういうことなのだろう。
しかし、ただのスーパーマン的造形では物語に奥行きがなくなってしまう、ということで、結城にも人間的な感情はある。
それが描かれるのが賀来とのシーンで、賀来を翻弄しつつもどこか女性的な甘えが垣間見えるのが面白い。
賀来に抱かれながら「それとも……女に会うの?」と呟くところなど、薄暗い情念さえほの見える気がする。
このシーン、サロメとヨカナーンがモチーフに使われているのだが、結城の愛情もまた、サロメと同様に純粋で屈折したものだったのかもしれないと思うとちょっと切ない。
結城と賀来の関係についてはただし、深い感情的繋がりは窺えるものの突っ込んだ心理描写がないため、読者は語られていない部分を想像で補う必要がある。
これは、結城と家族(特に兄)との関係についても云えるかと思う。
以下、どうでもいいようなことを少し。
『MONSTER』のヨハンって、結城を少なからず参考にしたのかなあと思った。
特に女装して悪巧みをするところはかなりイメージかぶるので、確実に影響受けてる気がする。
(結城と『悪霊』のスタヴローギンを足して2で割り、10倍に希釈したのが、ヨハンの個人的イメージ)
政治家「中田英覚」のアナグラムに気付いた時は、なるほどと思ったというか驚いた。
それから、結城がもみあげ作ってるのは当時流行ってたからなんですかね。
もみあげ残したまま女装するのは至難の業だと思うけど、そこは漫画なので気にしないことに…。
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