ハーメルンの笛吹き男
「ハーメルンの笛吹き男」の伝承には、どこかしら薄気味悪さが漂っている。
まだらの服の男、大量発生した鼠、消えた子供たち……。
子供時代に童話として読んだ時は、ただそこはかとない不気味さを感じただけだったが(子供は、神隠しネタに本能的恐怖を感じるものだと思う)、貧困と度重なる飢饉・疫病とが時代背景にあることを知れば、この物語には童話的側面以外の顔があるのかもしれないと思われてくる。
阿部謹也氏による『ハーメルンの笛吹き男』は、伝承の成り立ちとそこにこめられた意味を解き明かす試みである。
<ハーメルンの笛吹き男>。それは数十年の昔小学生だった私の家にあったまだらの服を着たあのおとぎ話の男のことではないだろうか。思い出してみるとあの話は単なるメルヘンとしてはあまりに生々しくユニークであり、単なる事実としてはあまりに幻想豊かな詩と現実との交錯した彩りをもっていた。
子供たちはどこへ消えたのか、“笛吹き男”とは何者だったのか――。
「ハーメルン」の伝承は史実だそうだが、その真相は深い霧に包まれたままである。
本書は、子供たちの置かれていた社会状況にスポットを当て、そこから失踪の謎を探るべく、中世ヨーロッパ社会における庶民また賎民の生活を丹念に研究したものとなっている。
さて、笛吹き男は遍歴の楽師である。
中世において遍歴楽師の地位は低く、賎民と見なされていた。
本書によると、彼らに市民権はなく、キリスト教会によって蔑視・非難の対象とされていたそうだ。
俳優や楽師は一方で古代の異教的文化を庶民のなかに生き生きとした姿で伝える存在として、教会にとってはキリスト教の普及の障害となったし、ゲルマン時代の英雄叙事詩人の存在も庶民のなかに生きつづける異教的伝統を呼びさます可能性を持つものとして、厳しく取り締られねばならなかった。
このあたり、エーコの『薔薇の名前』を思い出させる。
『薔薇の名前』の中で禁じられていたのは“笑い”だったが、音楽にしろ笑いにしろ、人間の快楽への欲求を禁じているわけだ。
“喜怒哀楽”の感情のうち、“喜”と“楽”を抑圧することで相手を支配しようとする――組織というものは、巨大になればなるほど統制が難しくなるとはいえ、このような支配のあり方は恐怖政治に近い気もする。
笛吹き男はまた時代が流れるにつれ、その姿を変えていった――というのも面白い。
「上等な服を着た三十歳位の美しい男」から「見知らぬ笛吹き男」、「いかさま師」、「魔術師」、そして「鼠捕り男」へ――。
背景には、絶対的権威としてのキリスト教会の思惑、神秘主義思想、疫病の流行など、さまざまな世相風俗があった。
だがいつの時代にも、ある時は畏怖の対象として、またある時は苦悶からの解放者として、笛吹き男は常に民衆文化の中にいたと云えるのだろう。
笛吹き男の伝説はあたかも、中世から近世にかけてのヨーロッパの、主に庶民の歴史を映し出す鏡であったかのようだ。
<ハーメルンの笛吹き男>という言葉は、もはやヴェーゼル河沿いの小さな町で起った、約700年前のひとつの事件とはまったく関係のない普通名詞として、良い意味でも悪い意味でも先導者・誘惑者のシンボルとなったのである。
700年を経た今、笛吹き男の謎が解明されることはもはやないかもしれないが、その伝承は永遠の命を得て我々の生活の中に息づいているように思われる。