オタク日記in東京・その2

東京に行ってきました。
池袋(当然)、上野、世田谷、渋谷、&千葉シティ(ニューロマンサー風に)をぐるぐるすること4日間。
よく歩いたなあ……東京行くと必ず脚が筋肉痛になります。

今回も池袋に日参するつもりだったんだけど、結局1回しか行けず……く、くやしいっ(ビクビクッ)。
でも、それなりに戦利品ゲット出来たのでよしとします。
あのオタクエリア、私の巡回経路は大抵、明輝→K→だらけです。らしんばんは目当てのジャンルが殆どないのでパス。
明輝って、なんとなーく安い掘出物がありそうなイメージがあって、一番最初に行っちゃうんですよね。
実際商品が充実してて且つ回転率よさそうなのは、やっぱKブックスだと思うんですけども。

上野と世田谷へは美術展目的で行きました。ルーブル美術館展と平泉展。
平泉の仏像は、京都奈良のものと較べるとどことなく朴訥で荒削りな印象でした。
“鉈彫り”という独特の彫り方のせいで鑿の跡がそのまま残ってるのが面白かった。新鮮。
そして仏像を見ていると妙に心が落ち着く自分に、日本人の遺伝子を実感。

平泉展は、仏像以外にも荘厳具とか曼荼羅図とか、とにかく展示物多くて見応えありました。
色彩に金が多用されてるのはみちのくならではなんだろうか……藤原清衡発願の写経なんて紺地に金文字。こんな写経初めて見た。美しすぎる!
なんかね、赤じゃなくて紺ってところが、奥ゆかしくて品があっていいなあと思いました。
あ、そういえば平泉展のチラシも紺地に金文字だった。そうか、この写経に倣ってたのか。

紺と金


ルーブル展の方は、すごい人ごみを覚悟してたんだけど、雨もよいの午後遅い時間に行ったせいか待ち時間ゼロでした。
でも、やはりそれなりに混んでて、看板作品のフェルメールには二重三重の人垣が出来てました。
フェルメールといえば、何年か前に行ったフェルメール展in大阪はまるでラッシュアワーの山手線だった…。以降、マスコミが噛んでるものは絶対に土日祝を避けようと固く心に誓いましたよ。

レースを編む女


ルーブル展はあまり時間がなくて駆け足鑑賞になってしまったのが心残り。
もっと人の少ない場所でじっくり観たかったな。
平泉展を観た後だったので、西洋絵画の色使いの複雑さが際立って見えて面白かったです。
レンブラントの黒とか、なんでこんなに美しいんだろうって目が釘付けになった。
黒から浮き上がって見える金も。
そういえば黒ってすべての色を含んだ色なんだっけと、レンブラントを観ながら思い出しました。
そういう豊穣さを、ほぼ黒と金だけの画に感じさせるところがレンブラントなんだろうな、と。

ところで、WBCの決勝時はたまたま友人宅にいて、みんなで一緒に観てました。すごい盛り上がり方だった(笑)。
友人のダンナが毒舌でねえ、ツーアウト2,3塁か何かでバッター小笠原というめちゃくちゃ期待のかかる場面で、あろうことか、「小笠原かあ…きっと三振だよ。あーあ、で終るよ」なんてオイオイな一言(笑)。
ホントに三振に倒れて、「あーあ」で終った時は、みんな爆笑だった。
って、そんなガス抜き(?)でもしないことには心臓に悪くて観てられない試合でしたよね、あれは。
でもでも、10回表イチローの打席だけは、絶対打ってくれると信じて観てましたけども。
「それでもイチローなら…イチローなら、きっとなんとかしてくれる」と、まるで陵南チームのような心境で。
しかし、あの場面、ホントに漫画のようだった。イチローはやっぱそういう運命の星の下に生れてきた人なんだろうなあ。

ピンボケが悲しい夜桜


上のボケボケすぎる写真に写っているのは石神井川の桜です。七部咲きくらい? 
東京も寒かったけど、地元はそれ以上に寒かった。空港の気温2℃とか…一体何月ですか、という。
ああ、それにしても新しいデジカメがほしい、手ブレ補正の……。

終りなき夜に生れつく

終りなき夜に生れつく


タイトル買いした1冊(記事参照)。
面白くてあっという間に読んだ。なんかもう寝る間も惜しんでって感じで。
が、しかし。
すごく面白くはあったんだけど、最後のどんでん返しが反則技に近い力技だったために微妙にすっきりしない読後感となってしまった。
心境としては、全力で信頼してたのにあっさり裏切られてしまって、呆然とするやらいっそ清々しいやら…という感じ。
ただ、ミステリではなく悲恋物として読む分には、このどんでん返しも気にならない、というかむしろ効果的だろうと思う。
面白さの内訳はミステリ成分2に対して、切なさ成分8、といったところか。
以下、完全ネタバレになるので折り畳んでおきます。

不完全燃焼

「妖精の脚」ってどういう発想、つよっさん……。
心の剛さん語録に1個追加しときました。今年はしょっぱなから飛ばしてるなー。

時限爆弾内蔵式(時間が経つと突然砂嵐になる)テレビを物置に追いやってからというもの、ネットだけが情報源の生活を送ってます。
たまに観るとCMが新鮮だったり、芸能人の栄枯盛衰を感じたりと、まるで海外帰りのような気分が味わえます。
そんなテレビとのお付き合いですが、今日(15日)は珍しくも2番組観ました。

Nスペ「法隆寺再建の謎」、おーもーしーろーそー! 処天好きの血が騒ぐこのタイトル。
しかし、期待が大きすぎたのか、内容がないようってほどでもないけどなんか微妙に薄味だった気がする。
結局、金堂を別の土地に建てたのは、仏教信仰へのモチベーションを高めるためだったってこと?
でも、その後の敷地を移して法隆寺再建のいきさつがよくわかんなかった…ていうか、省かれてたのが残念だった。
一番知りたいところがすっ飛ばかされてた、みたいな。
まあ、なんというか、全体的に当たり障りのない内容でした。やっぱテレビだといろいろ限界があるのかな。

法隆寺の謎というと、処天好きなら思い出すのが『隠された十字架』ですよね。
これを読んで以来、法隆寺は鎮魂の寺というイメージが貼り付いて取れなくなってしまった。
その方がドラマチックだしね…なまじ漫画から入ったもんだから、お寺にもドラマ性を求めてしまう。法隆寺にはいい迷惑かも。
それにしても、梅原猛の学説って、今はどういう位置付けなんだろう?
個人的にはこういう人間臭い論考もあっていいと思うんだけどな。やはり異端なんだろうか。
梅原考古学といえば、『水底の歌』も面白かった。これも怨念ベースだっけ。
懐かしいなあ…なんか処天ともども読み返したくなってしまった。

青い花

青い花 (岩波文庫)



ちょうど画家や音楽家が目や耳という外にある器官を心地よい感覚で満たすのに対して、詩人の方は心情という内にひそむ聖域を、不思議な快い想念で新たに満たしてくれて、わたしたちの内に秘められたあの神秘の力を思いのままに刺激して、言葉によって未知の素晴らしい世界を知覚させます。――『青い花』ノヴァーリス(青山隆夫訳)

15年くらい前に買って書棚に差しっぱなしにしていたもの。今頃読んだ。
青年詩人ハインリヒの魂の遍歴を描いた、いわゆるドイツ教養小説の系譜なのだが、ゲーテやトーマス・マンのそれとはかなり趣を異にしている。
成長物語というよりは思想・哲学に近く、小説技法に囚われないさまはむしろ散文詩のようである。
想像力の翼は高みを目指して翔け、壮大で神秘的な世界を描き出す。

詩人の夢と理想の象徴である“青い花”に、長い旅の果て、ハインリヒはようやく廻り逢う。
その意味するところはつまり、詩の力による「可視の世界と不可視の世界との永遠の結合」だろう。
まばゆいほどに清冽な、ノヴァーリスの思想の結晶のような小説。

真木栗ノ穴

真木栗ノ穴



男は売れないミステリ作家。名は真木栗。
ある日真木栗は、部屋の壁に小さな穴を見つける。
同じ頃、彼の元に官能小説執筆の依頼が舞い込み、曰くありげな若い女が隣の部屋に越してくる――。

日傘の女、薬売り、古い木造アパート、そしてのぞき穴。
パソコンもファックスもテレビすらない薄暗い部屋で、原稿用紙に万年筆を走らせている真木栗。
舞台は現代なのに、昭和初期の世界を観ているかのようなレトロな匂いが濃く漂う。まるでそこだけ時間を止めてしまったかのように。
原作はホラー小説だそうだが、“ホラー”という言葉からイメージされるショッキングな怖さはない。
怖さよりも不可思議な魅力の方が勝る映画だと思うが、それでも、ひたひたと死の影に覆われてゆく真木栗の姿を観るのはちょっと怖かった。
今にも朽ち果てそうな古いアパートで現世と異界が交錯し、やがて誰が生者で誰が死者かさえわからなくなってくる。
登場人物たちが行き交う切通しは異界に通じる道のようだし、せむしの老人はその水先案内人のようだ。

隣の部屋の女を演ずるのは粟田麗という女優で、私は寡聞にしてこの人を知らないのだけれど、作中ではとても美しく撮られていた。
「美しい」というのは造形的な美しさではなく、楚々とした佇まいから匂い立つ女性美といった感じだ。
それも、とてもエロティックな。
真木栗が、彼女の脚についた赤いトマトの汁を拭き取るシーンのエロティックさといったら……。
ところで、壁の穴は左右にひとつずつ開いていて、真木栗の目を通して観客は両隣の部屋を覗き見ることになる。
一方では激しいセックスに興じる若いカップルの姿、そしてもう一方では、複数の男たちに抱かれる件の女の姿を――。
ただし、このふたつのシーンはかなり対照的である。若者カップルのセックスが生々しく映し出されるのに対し、男たちに抱かれる女の姿はごく断片的にしか映されない。
しかしながら、エロティシズムは後者の方が断然勝っており、観る者の妄想を煽るかのように漏れ聞こえる女の声とわずかに見える肌はひどく淫靡である。
女は結局のところ、真木栗の妄想の所産なのだが、男の妄想が生み出す女の儚い美しさとエロスには、幻だからこそ抗いがたい魅力があるのかもしれない。
そして、それはどこか死の魅力に通じるものがあるようにも思われる。

真木栗役の西島秀俊は、性欲だの官能だのという言葉からは程遠いその清潔な風貌が、却って役柄にハマっていたと思う。
どんなに変態的な行動も、西島だったら嫌悪感は湧かないんじゃないだろうか、特に女性の観客は。
線が細くて、ぎらぎらしたところがないから、無精ひげも煙草の山も不潔さとは結びつかないし。
中年女性との絡みでは、まるで「喰われる」かのようだったのも印象深い。
いうなれば植物的なエロティシズムだろうか、性的なものを感じさせないのに色っぽい、不思議な魅力のある人だった。