ゼロ時間へ

ゼロ時間へ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

Towards Zero / Agatha Christie  1944
三川基好訳


いやー、すっかり騙されちったぜ。
こいつorこいつorこいつに違いない!と予想した犯人すべてハズレですよ。とほ。

タイトルの“ゼロ時間”とは“殺人の起った時間”のことで、探偵役のバトル警視によると
「殺人は事件が起こるはるか以前から始まっているのです! 殺人事件は数多くのさまざまな条件が重なり合い、すべてがある点に集中したところで起こるものです。<中略>殺人事件自体は物語の結末なのです。つまりゼロ時間」
だそうで、本作はこの“ゼロ時間”へ向けて物語が収束してゆく形をとった、“ミステリの常識を覆したと評価の高い画期的な野心作”とされている。

のだけれど、実際そこまで画期的とは……ゲフンゲフン。まあ半世紀以上昔の作品ですからね。
良くも悪くも古典ミステリの範疇を出ていない、だがそれがいい、という作品だと思います。

メインとなる事件は物語中盤に起きるのですが、それまではテニスプレイヤーの夫と若い妻、捨てられた元妻の3人を中心とした、クリスティ得意の愛憎劇で物語を引っ張る感じです。
結構昼メロチックなんですけどね、チラ見せ的な心理描写が巧みなので、「この二人は結局どうなるの!?」と先が気になって仕方ない。テンポもいいしね。
最後の謎解きはやや非現実的な感がなくもないけど、まあでも古典だから…で許容範囲ではあります。

冒頭で描かれる互いに何の関連性もなさそうなエピソード群、これらが徐々に線となって“ゼロ時間”へ集約されるのも面白い。
読了後に冒頭部分を読み返すと、点と点が繋がり(いくぶん強引だけど)線になる全体像が見えてきて「そういうことかー!」とちょっと感動しました。

ところで、本作について「良くも悪くも古典ミステリ」と書きましたが、実はメインテーマは現代に通ずるものだったりするんですよね。
メインテーマというか、犯人の人物像と動機ですが。
かなり現代的な犯人像と動機だと思ったんだけど、実はいつの時代にもあり得ることなのかな(事実は小説より奇なりだし、イギリスだし)……今も昔も狂気には違いないと思うけど。

趣味の遺伝・琴のそら音

倫敦塔・幻影の盾 (新潮文庫)


なんとなく読み返したくなり、読み返してみた。十数年ぶり。
ストーリーかなり忘れてたのに、なぜかとても懐かしかった。

夏目漱石の作品は、『三四郎』と『夢十夜』が一番好きだ。
初期から中期にかけての、浪漫主義匂い立つような物語性の強い作品群は、読んでて本当にワクワクしたもんである。
とりわけ『夢十夜』は、幻想的な舞台装置の中に人間の性を浮び上がらせて、切ないような怖いような不思議な余韻を残す、まさに“珠玉の短篇集”だと思う。

対して中期後半から後期にかけての作品群ってのは、もうどんどん内省の深みにはまってく感じで、読んでて辛かった……。
一時期、夏目漱石を集中的に読んでたことがあって、全作品制覇する気まんまんだったんだけど、『門』あたりからの閉塞感にどうにも嫌気が差して挫折しちゃったんですよね。
(でも『二百十日』なんかは結構好きだった、諧謔味があって)

『倫敦塔・幻影の盾 他五篇』も当時読み漁った中の1冊。
趣向の異なる7篇いずれにも浪漫趣味が横溢しているのだが、中でも「趣味の遺伝」と「琴のそら音」が好きだった。
当時の読書メモには、「日露戦争は、ロマネスクな怪談の似合う最後の戦だったのかな」なんて書いてある。
そうそう、確かにロマネスクな怪談。但し、とても日本的な、奥床しいロマン。

自分の知らないはずの時代に懐かしさを感じる、って考えたら不思議なんだけど、それこそ連綿と続く日本人の遺伝子のなせる業なのかと思うと、なんだかぞくぞくしなくもない(愉しくて)。

ところで、この時代の男の人が親しい友人などを呼ぶときの、名前の頭に「さん」をつけた呼び方(「趣味の遺伝」だと、浩一に対して「浩さん」とか)に萌える。
特に年少者が年長の男性に呼びかけるときの、親しみと奥床しさの入り交じった感じ、いいなあ。

サプライズ!

先日アマゾンから「こんなんどう?」メールが来まして…
いつもならゴミ箱直行なんですが、タイトルががが!!!
『美しく燃える森』って、えええええ!!!

いやー出るんですか、ついに。
びっくりしたなあ、もう……99.9%諦めてましたが…わかんないもんですね。

そういえば、ウン年越しのあの小冊子企画はどうなったんだろう。
って今シャレードのサイト見たら企画続行ですか。すげー。
ていうか当時の応募券まだ有効なんですか!? えええ!!

アレまだ取ってる人って…自分だよ自分。
0.1%の希望を捨てきれず、てわけでもなく、単にロッカーの中にそのまんま置いてただけなんですけどね。
とりあえず捨てなかった自分、グッジョブ!

アマゾンメール、『幻月楼』の3巻も予約受付中になってたので一緒に予約しときました。
最近すっかりBL方面疎くなってるんだけど、久々に月末が愉しみだー。

夏への扉

夏への扉 (ハヤカワ文庫 SF (345))

The Door into Summer / Robert A. Heinlein 1957
福島正実訳

タイムリープSFの古典中の古典、と云っていいんでしょうか?
50年以上前の作品なので、さすがに古色蒼然とした趣は否めない。
が、そのセピア色の古臭さがいい。古きよき時代のアメリカが感じられる小説。

昔のSFを読む愉しみのひとつに、同時代人ではなく未来の人間の目線で物語を眺められることがあるんじゃないだろうか。
SF映画『2010年』を実際に2010年に観てみたら、タイムワープしてきた未来人の気持ちが味わえそうな、そんな愉しさ。

『夏への扉』の舞台は2000年。主人公は1970年から30年の時を超えてやって来る。
30年……って長いのか短いのか、微妙ですね。
でも、いざ現実世界を振り返ってみると、この30年での変化って凄まじいものがあると思う。
ソ連消失ロシア復活とか、携帯電話登場とか、地理系と電子機器系は本当に激動でしたな。
そのなかでも、一番大きな変化といえばやはりインターネットの発明(?)に尽きるんじゃないだろうか。市場経済に与えた影響も大きそうだし。

『夏への扉』では、しかし、インターネットに類する発明は出てこない。
刊行当時の発明需要が別方向を向いてたのか、お手伝いロボットとか「滑走道路」(ムービングロード?)とか、単純に人の労力を省くことに重点を置いた発明が多い。
まあそのへんは娯楽小説だし、イメージしやすく画になるものを、ってことなのかもしれない。
ネットもロボットも、追求しているものは同じ――“便利さ”であることには違いないと思う。
ただ当時の社会的需要として、インターネット的な利便性は求められてなかったということなのか。
冷戦構造の崩壊からグローバル化、その流れの中でインターネットの需要は生れた、ということだろうか。

何か話が逸れましたが、『夏への扉』は別に社会派小説でもなんでもない、あっけらかんと明るい、五月の朝のように爽やかな物語です。
前半、手酷い裏切りにあって主人公が自暴自棄になったりするんだけど、それでも全然鬱にならない。基本的に前向きなんですよね。
このポジティブ思考はアメリカ人ならではなのか……見習いたいところです。

個人的には、後半二度目のタイムリープを試みるあたりからがスピード感あって面白かった。
このあたりになると、「あー、あれはこういう伏線だったのかー!」と話のオチもだいぶ見えてくるんだけど、それでも最後まで愉しく読めました。後味すっきり。

ところで、この作品、最近同じ早川から新訳で新装版が出たらしい。
私が読んだのは古い版で、訳もかなり古いらしく、読みながらところどころ違和感があった。
もし新たに読まれる方があれば、新装版の方がいいかもしれません。

ハーメルンの笛吹き男

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)


「ハーメルンの笛吹き男」の伝承には、どこかしら薄気味悪さが漂っている。
まだらの服の男、大量発生した鼠、消えた子供たち……。
子供時代に童話として読んだ時は、ただそこはかとない不気味さを感じただけだったが(子供は、神隠しネタに本能的恐怖を感じるものだと思う)、貧困と度重なる飢饉・疫病とが時代背景にあることを知れば、この物語には童話的側面以外の顔があるのかもしれないと思われてくる。

阿部謹也氏による『ハーメルンの笛吹き男』は、伝承の成り立ちとそこにこめられた意味を解き明かす試みである。

<ハーメルンの笛吹き男>。それは数十年の昔小学生だった私の家にあったまだらの服を着たあのおとぎ話の男のことではないだろうか。思い出してみるとあの話は単なるメルヘンとしてはあまりに生々しくユニークであり、単なる事実としてはあまりに幻想豊かな詩と現実との交錯した彩りをもっていた。

子供たちはどこへ消えたのか、“笛吹き男”とは何者だったのか――。
「ハーメルン」の伝承は史実だそうだが、その真相は深い霧に包まれたままである。
本書は、子供たちの置かれていた社会状況にスポットを当て、そこから失踪の謎を探るべく、中世ヨーロッパ社会における庶民また賎民の生活を丹念に研究したものとなっている。

さて、笛吹き男は遍歴の楽師である。
中世において遍歴楽師の地位は低く、賎民と見なされていた。
本書によると、彼らに市民権はなく、キリスト教会によって蔑視・非難の対象とされていたそうだ。

俳優や楽師は一方で古代の異教的文化を庶民のなかに生き生きとした姿で伝える存在として、教会にとってはキリスト教の普及の障害となったし、ゲルマン時代の英雄叙事詩人の存在も庶民のなかに生きつづける異教的伝統を呼びさます可能性を持つものとして、厳しく取り締られねばならなかった。

このあたり、エーコの『薔薇の名前』を思い出させる。
『薔薇の名前』の中で禁じられていたのは“笑い”だったが、音楽にしろ笑いにしろ、人間の快楽への欲求を禁じているわけだ。
“喜怒哀楽”の感情のうち、“喜”と“楽”を抑圧することで相手を支配しようとする――組織というものは、巨大になればなるほど統制が難しくなるとはいえ、このような支配のあり方は恐怖政治に近い気もする。

笛吹き男はまた時代が流れるにつれ、その姿を変えていった――というのも面白い。
「上等な服を着た三十歳位の美しい男」から「見知らぬ笛吹き男」、「いかさま師」、「魔術師」、そして「鼠捕り男」へ――。
背景には、絶対的権威としてのキリスト教会の思惑、神秘主義思想、疫病の流行など、さまざまな世相風俗があった。
だがいつの時代にも、ある時は畏怖の対象として、またある時は苦悶からの解放者として、笛吹き男は常に民衆文化の中にいたと云えるのだろう。
笛吹き男の伝説はあたかも、中世から近世にかけてのヨーロッパの、主に庶民の歴史を映し出す鏡であったかのようだ。

<ハーメルンの笛吹き男>という言葉は、もはやヴェーゼル河沿いの小さな町で起った、約700年前のひとつの事件とはまったく関係のない普通名詞として、良い意味でも悪い意味でも先導者・誘惑者のシンボルとなったのである。

700年を経た今、笛吹き男の謎が解明されることはもはやないかもしれないが、その伝承は永遠の命を得て我々の生活の中に息づいているように思われる。