密林生活

この1週間でアマゾンから3つも荷物が届きました。そして、明日またひとつやって来ます(待望の!ハゲがっ!)。
なんか配達のおじさんにすっかり場所憶えられてそうだなあ……「またここかい!」とか思われてそうだよ。
最近のアマ依存度に我ながら驚くぜ。でも、世の中には私以上のツワモノが大勢いるんでしょうね。
こないだ通勤中に佐●急便のバン見かけたんですけど、走りすぎてゆく車のリアシートにアマゾン印ダンボールの山があって、こんなにお仲間(?)が!と勇気付けられた気分になりんした。

ところで、10日は結局インテに行ってしまいました。
朝7時過ぎに家を出て9時半過ぎに会場着――とここまでは夏の再現だったのに、列だけがなんか夏より長くなってた……何故だ。
うわあ…一体何時間待たされるの、これ……って感じで軽く絶望しつつ、倉庫みたいなとこの待機列でカタログチェックに励んだ次第です。
(どうでもいいけど、ブーツでしゃがむのってキツいっすねー! しかも長時間しかもブーツイン。さすがに足が死にそうになったので、途中でうん●んぐスタイル解除しました)

目当てのブツは、通販なし、書店委託は当然なしの、ここでしか入手不可能な代物、数冊。
無事にゲット出来てよかったです。
しかし、ほしい物がイベントでしか手に入らないってことは、私はこの先まだまだインテに来なければならないのだろうか…(…)。
いやーキツイなー、老体にはキツイっすよー。
でも萌えがある限り、そして作家さんが参加してくれる限り、やっぱ来ちゃうんだろなあ。

会場に入ったのは11時半くらいだったんですが、12時前には任務完了で会場後にしてました。
買物時間30分、待ち時間2時間か……いやいや。

さて年末年始は、わたし的に慣例となった某二人組(適当にご想像ください)萌えのシーズンなんですよ。
ここ数年ねえ、なんか年毎にスケールアップしてる気がするんですよねえ、萌えの威力が…(主に左側の彼のおかげで)。
この人の愛は一体どこまで行くんだろうなあ……あの重さに耐えられる、というか重さを感じてなさげなもう一方の彼の愛もまた違った意味ですごい。母性だわ。

夏への扉

夏への扉 (ハヤカワ文庫 SF (345))

The Door into Summer / Robert A. Heinlein 1957
福島正実訳

タイムリープSFの古典中の古典、と云っていいんでしょうか?
50年以上前の作品なので、さすがに古色蒼然とした趣は否めない。
が、そのセピア色の古臭さがいい。古きよき時代のアメリカが感じられる小説。

昔のSFを読む愉しみのひとつに、同時代人ではなく未来の人間の目線で物語を眺められることがあるんじゃないだろうか。
SF映画『2010年』を実際に2010年に観てみたら、タイムワープしてきた未来人の気持ちが味わえそうな、そんな愉しさ。

『夏への扉』の舞台は2000年。主人公は1970年から30年の時を超えてやって来る。
30年……って長いのか短いのか、微妙ですね。
でも、いざ現実世界を振り返ってみると、この30年での変化って凄まじいものがあると思う。
ソ連消失ロシア復活とか、携帯電話登場とか、地理系と電子機器系は本当に激動でしたな。
そのなかでも、一番大きな変化といえばやはりインターネットの発明(?)に尽きるんじゃないだろうか。市場経済に与えた影響も大きそうだし。

『夏への扉』では、しかし、インターネットに類する発明は出てこない。
刊行当時の発明需要が別方向を向いてたのか、お手伝いロボットとか「滑走道路」(ムービングロード?)とか、単純に人の労力を省くことに重点を置いた発明が多い。
まあそのへんは娯楽小説だし、イメージしやすく画になるものを、ってことなのかもしれない。
ネットもロボットも、追求しているものは同じ――“便利さ”であることには違いないと思う。
ただ当時の社会的需要として、インターネット的な利便性は求められてなかったということなのか。
冷戦構造の崩壊からグローバル化、その流れの中でインターネットの需要は生れた、ということだろうか。

何か話が逸れましたが、『夏への扉』は別に社会派小説でもなんでもない、あっけらかんと明るい、五月の朝のように爽やかな物語です。
前半、手酷い裏切りにあって主人公が自暴自棄になったりするんだけど、それでも全然鬱にならない。基本的に前向きなんですよね。
このポジティブ思考はアメリカ人ならではなのか……見習いたいところです。

個人的には、後半二度目のタイムリープを試みるあたりからがスピード感あって面白かった。
このあたりになると、「あー、あれはこういう伏線だったのかー!」と話のオチもだいぶ見えてくるんだけど、それでも最後まで愉しく読めました。後味すっきり。

ところで、この作品、最近同じ早川から新訳で新装版が出たらしい。
私が読んだのは古い版で、訳もかなり古いらしく、読みながらところどころ違和感があった。
もし新たに読まれる方があれば、新装版の方がいいかもしれません。

謹賀新年

2010

文字だけじゃ淋しいので、今年の年賀状を貼ってみました。
いつも郵便局のテンプレート使ってます。何故パンダが…と思いつつ、かわゆさに一目惚れしたこの一枚。

大晦日は実家で鍋を突きつつ、紅白とかダラダラ観ながら、ジ●ニのカウントダウンライブで年を越すのが例年のわたし的慣わしです。
カウコン、年々若手が増えていって主役の座も移りゆきつつあることに、時の流れが感じられてちょっと淋しいような。

そういえば昨日(全然話題が違いますが)、南野ましろさんと誕生日が同じと知り、プチ感動しました。
やっぱ萌えツボと関係あるのかしら〜、みたいな(?)。
ていうか、ましろさんのサイト捜してたんですけどね…ないのかなあ? 残念。

今年もまったりマイペースにやっていきますので、よろしくお願いします。

風邪、それともインフル

先々週の末から熱が出て3日ほど寝込んでました。
病院へ行かなかったもんで、インフルだったのか、はたまたただの風邪だったのか不明なり。
熱は下がったけど倦怠感と咳が残ってる、なんかこのしつこい感じがインフルっぽい気もするし。
いやーインフルなら、抗体が出来て助かるよなあ…とか思うんですが。

インフルといえば、8年くらい前に強烈なやつに罹って1週間寝込んだ悪夢が甦ります。
これ、発症したのが飛行機の中でねえ、いきなり気分悪くなってスッチーに薬をもらったんですよ。
ところが薬がアスピリンしかなくて、アスピリンじゃあ良くなるはずもなく、むしろますます悪くなり、げーげー吐いていたら、近くの席の女の子がナイロン袋をくれたという、なんともしょっぱい思い出が…。
そんでもって、満席だったので横になることも出来ず、窮余の策っつー感じで酸素マスクを付けさせられた。
しかし、これまた効果ゼロで(当然)、その後は関空までの12時間耐えに耐え、忍び難きを忍び……いやー今思い出してもあれは辛かったなー。
もう二度とエコノミーで海外へは行かない(=二度と海外へは行かない、とほぼ同義)、と固く心に決めたほろ苦い思ひ出。

それはそうと、気がついたら先月先々月と更新ゼロだったんですが、この間何やってたかというと別に何かやってたわけではないです。
あ、でもDVDは結構観たな。夏からこっち、懐かし大河ドラマ回顧ブームで、『風と雲と虹と』→『真田太平記』→『黄金の日日』(これはまだ途中)と観てきてますよ。
昔の大河濃ゆいわー!(『真田〜』は大河じゃないけど)
密度もレベルもハンパない。そりゃー大河オタとか生れるはずだよね。そして昨今の出来に絶望するはずだよね。

『日日』の次は何行こうかな…リアルタイムで観てた『徳川家康』と『おんな太閤記』も観返したい、夏目雅子好きなので。
でも、三傑モノはしばらくいいわという気分でもあるので、評価の高い『太平記』あたり行ってみようかな。
鎌倉〜南北朝の権力争いって面白そうなんだけど、なんであまり映像化されないんですかね。地味だから?
わたし的には戦国より源平のが惹かれるんですよね。あーやっぱ『草燃える』が観たいわー!
あとは『翔ぶが如く』もマスト作品ですかね。

その他最近のオタク的関心事。
■ものすごく久々にマガビーを買った。SEX PISTOLS目当てで。
 画が…画が白い〜。内容的には期待していいのやらどうなのやら。
 とりあえず懐かしくなったので、単行本の1,2巻を読み返してみた。
 はー、やっぱ米国×委員長はいいなー、萌えるぜ。これ腹6分目くらいで終ってるのが切ないわ…せめてあと2分の萌えを! どうか! みたいな。

■えねっちけーの土曜ドラマ『外事警察』がすごく黒くて面白かった。
 これ、訓覇Pだったんですねー、ど・う・り・で!
 いやしかし、主人公、こんなに黒くて大丈夫なんかいな…なんか絶対まともな終り方しそうにないよね、バッドエンドの匂いがぷんぷん。
 どういうオチになるのか、愉しみでもあり怖くもあり。

ハーメルンの笛吹き男

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)


「ハーメルンの笛吹き男」の伝承には、どこかしら薄気味悪さが漂っている。
まだらの服の男、大量発生した鼠、消えた子供たち……。
子供時代に童話として読んだ時は、ただそこはかとない不気味さを感じただけだったが(子供は、神隠しネタに本能的恐怖を感じるものだと思う)、貧困と度重なる飢饉・疫病とが時代背景にあることを知れば、この物語には童話的側面以外の顔があるのかもしれないと思われてくる。

阿部謹也氏による『ハーメルンの笛吹き男』は、伝承の成り立ちとそこにこめられた意味を解き明かす試みである。

<ハーメルンの笛吹き男>。それは数十年の昔小学生だった私の家にあったまだらの服を着たあのおとぎ話の男のことではないだろうか。思い出してみるとあの話は単なるメルヘンとしてはあまりに生々しくユニークであり、単なる事実としてはあまりに幻想豊かな詩と現実との交錯した彩りをもっていた。

子供たちはどこへ消えたのか、“笛吹き男”とは何者だったのか――。
「ハーメルン」の伝承は史実だそうだが、その真相は深い霧に包まれたままである。
本書は、子供たちの置かれていた社会状況にスポットを当て、そこから失踪の謎を探るべく、中世ヨーロッパ社会における庶民また賎民の生活を丹念に研究したものとなっている。

さて、笛吹き男は遍歴の楽師である。
中世において遍歴楽師の地位は低く、賎民と見なされていた。
本書によると、彼らに市民権はなく、キリスト教会によって蔑視・非難の対象とされていたそうだ。

俳優や楽師は一方で古代の異教的文化を庶民のなかに生き生きとした姿で伝える存在として、教会にとってはキリスト教の普及の障害となったし、ゲルマン時代の英雄叙事詩人の存在も庶民のなかに生きつづける異教的伝統を呼びさます可能性を持つものとして、厳しく取り締られねばならなかった。

このあたり、エーコの『薔薇の名前』を思い出させる。
『薔薇の名前』の中で禁じられていたのは“笑い”だったが、音楽にしろ笑いにしろ、人間の快楽への欲求を禁じているわけだ。
“喜怒哀楽”の感情のうち、“喜”と“楽”を抑圧することで相手を支配しようとする――組織というものは、巨大になればなるほど統制が難しくなるとはいえ、このような支配のあり方は恐怖政治に近い気もする。

笛吹き男はまた時代が流れるにつれ、その姿を変えていった――というのも面白い。
「上等な服を着た三十歳位の美しい男」から「見知らぬ笛吹き男」、「いかさま師」、「魔術師」、そして「鼠捕り男」へ――。
背景には、絶対的権威としてのキリスト教会の思惑、神秘主義思想、疫病の流行など、さまざまな世相風俗があった。
だがいつの時代にも、ある時は畏怖の対象として、またある時は苦悶からの解放者として、笛吹き男は常に民衆文化の中にいたと云えるのだろう。
笛吹き男の伝説はあたかも、中世から近世にかけてのヨーロッパの、主に庶民の歴史を映し出す鏡であったかのようだ。

<ハーメルンの笛吹き男>という言葉は、もはやヴェーゼル河沿いの小さな町で起った、約700年前のひとつの事件とはまったく関係のない普通名詞として、良い意味でも悪い意味でも先導者・誘惑者のシンボルとなったのである。

700年を経た今、笛吹き男の謎が解明されることはもはやないかもしれないが、その伝承は永遠の命を得て我々の生活の中に息づいているように思われる。
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