真木栗ノ穴
男は売れないミステリ作家。名は真木栗。
ある日真木栗は、部屋の壁に小さな穴を見つける。
同じ頃、彼の元に官能小説執筆の依頼が舞い込み、曰くありげな若い女が隣の部屋に越してくる――。
日傘の女、薬売り、古い木造アパート、そしてのぞき穴。
パソコンもファックスもテレビすらない薄暗い部屋で、原稿用紙に万年筆を走らせている真木栗。
舞台は現代なのに、昭和初期の世界を観ているかのようなレトロな匂いが濃く漂う。まるでそこだけ時間を止めてしまったかのように。
原作はホラー小説だそうだが、“ホラー”という言葉からイメージされるショッキングな怖さはない。
怖さよりも不可思議な魅力の方が勝る映画だと思うが、それでも、ひたひたと死の影に覆われてゆく真木栗の姿を観るのはちょっと怖かった。
今にも朽ち果てそうな古いアパートで現世と異界が交錯し、やがて誰が生者で誰が死者かさえわからなくなってくる。
登場人物たちが行き交う切通しは異界に通じる道のようだし、せむしの老人はその水先案内人のようだ。
隣の部屋の女を演ずるのは粟田麗という女優で、私は寡聞にしてこの人を知らないのだけれど、作中ではとても美しく撮られていた。
「美しい」というのは造形的な美しさではなく、楚々とした佇まいから匂い立つ女性美といった感じだ。
それも、とてもエロティックな。
真木栗が、彼女の脚についた赤いトマトの汁を拭き取るシーンのエロティックさといったら……。
ところで、壁の穴は左右にひとつずつ開いていて、真木栗の目を通して観客は両隣の部屋を覗き見ることになる。
一方では激しいセックスに興じる若いカップルの姿、そしてもう一方では、複数の男たちに抱かれる件の女の姿を――。
ただし、このふたつのシーンはかなり対照的である。若者カップルのセックスが生々しく映し出されるのに対し、男たちに抱かれる女の姿はごく断片的にしか映されない。
しかしながら、エロティシズムは後者の方が断然勝っており、観る者の妄想を煽るかのように漏れ聞こえる女の声とわずかに見える肌はひどく淫靡である。
女は結局のところ、真木栗の妄想の所産なのだが、男の妄想が生み出す女の儚い美しさとエロスには、幻だからこそ抗いがたい魅力があるのかもしれない。
そして、それはどこか死の魅力に通じるものがあるようにも思われる。
真木栗役の西島秀俊は、性欲だの官能だのという言葉からは程遠いその清潔な風貌が、却って役柄にハマっていたと思う。
どんなに変態的な行動も、西島だったら嫌悪感は湧かないんじゃないだろうか、特に女性の観客は。
線が細くて、ぎらぎらしたところがないから、無精ひげも煙草の山も不潔さとは結びつかないし。
中年女性との絡みでは、まるで「喰われる」かのようだったのも印象深い。
いうなれば植物的なエロティシズムだろうか、性的なものを感じさせないのに色っぽい、不思議な魅力のある人だった。